悪用される御言葉
今読んだのは、イエスが律法学者を厳しく戒める言葉と一人のやもめ(未亡人)が献金する2つの場面です。
これらの話は、一見、全く関係ない別々の話のように聞こえるかもしれませんが、実は関連がある話です。
おそらくマルコは、この2つの話をあえて並べたのだと思います。
後半部分のやもめの献金の話を独立したものとして読むと、勘違いしてしやすい面があります。
やもめの献金の話は、イエスが賽銭箱の向かいに座って、人々がお金を入れる様子を見ているところから始まります。
この時、大勢のお金持ちの人は、大きな額を賽銭箱に入れて、献金をしていましたが、そのあとやって来た貧しいやもめが捧げたのは、レプトン銅貨2枚でした。
このレプトン銅貨というのは、当時流通していた通貨の中で、最小単位のお金であり、今の日本で言えば、1円玉に当たります。
2レプトンというのは、金額で言えば、せいぜい数十円程度なので、金額的に見れば、他の人と比べて最も少ない額を捧げたに過ぎません。
しかし、イエスはこのやもめが誰よりもたくさん入れたと言われたのです。
それは、お金持ちの人々は有り余る中から入れましたが、やもめは乏しい中から、持っているすべての生活費を入れたからでした。
それでこの話は終わりますが、ここからよくメッセージとして語られることは「たとえ貧しかったとしても、神様への感謝と信頼をもって、豊かに献金を捧げましょう。そうすれば、神様はあなたを満たしてくださいます。」というような話です。
しかし、本当にこの御言葉はそういうことを語りかけようとしているのでしょうか?
確かに、この御言葉は献金を集めるためにとても都合のいい話です。
そのため、これまで悪用されてきた御言葉の一つだと言えます。
ただ、考えてみれば、このやもめが毎回、生活費の全てを入れていたかというと、さすがにそんなことはなかったと思います。
この時のやもめの行動は、自ら捧げたという意味で素晴らしいことだと思いますが、同時にイレギュラーなことだったはずです。
もし、毎回生活費の全てを捧げていたら、生活自体が成り立たなくなります。
もちろん、生活費の全てを自らの意思で捧げる人がいたとすれば、それは素晴らしいことであり、そのこと自体何も否定されるべきはありませんが、だからと言って、この話を多くの献金を集めるために持ち出すことは、ちょっと危ないことだと言わざるを得ません。
律法学者の関心
それでは、このやもめの献金の話は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
そのためには、前半の律法学者の話を理解する必要があります。
ここでイエスは律法学者たちについて、彼らが長い衣をまとって歩き回ることや広場で挨拶されること、会堂では上席に、宴会では上座に座ることを望んでいること、また、やもめの家を食い物にして、見せかけの長い祈りをしていることを戒めています。
長い衣というのは権威の象徴であり、律法学者たちには、周りから権威ある存在として認められたいという思いがありました。
また、広場というのは多くの人々が行き来するところであり、彼らがそこで挨拶されることを求めたのは、周りから関心を集め、尊敬の眼差しで見られたいという思いからでしょう。
上席や上座に座ることを望んだのは、他の人よりも自分たちの方が偉い、上だという意識があったからであり、祈る時に長く祈っていたのは、祈りという行為によって、自分の敬虔さを周りにアピールする狙いがあったようです。
ここからわかることは、律法学者たちが周りから自分がどう見られているのかということに強い関心を持っていたということです。
神様を信じ、神様に従うために律法を研究し、教えていたはずなのに、いつからか神様ではなく、人の目の方が気になるようになってしまいました。
人々の目には自分がどう映るかということが、律法学者の行動基準となっていったのです。
ここでの話のポイントは「神様よりも人間の方が」ということです。
やもめの信仰
それを踏まえて、もう一度やもめが捧げた献金の話を思い出してみましょう。
イエスが賽銭箱を見ている時、大勢のお金持ちの人たちは、たくさんのお金を賽銭箱に入れていました。
イエスが賽銭箱を見て、たくさんのお金を捧げていることがわかったということは、献金するところが人々の目に晒されていたということです。
人々は自分たちが捧げているところを周りに見られていることを意識せざるを得なかったと思う。
そうだとすれば、この時、お金持ちの人たちには、律法学者と同じような心があったように思います。
特にお金持ちの人たちの中には、自分がたくさんのお金を捧げていることを、周りにアピールするような気持ちで捧げる人々もいたでしょう。
献金は神様に捧げるものでありながら、人々の目にどう映っているかということが関心事になってしまったのです。
これは、前半部分でイエスが律法学者を厳しく戒めていることと同じです。
それに対して、やもめはどうだったでしょうか?
貧しい中からすべてを捧げたということにも意味があると思いますが、同時に、たとえレプトン銅貨2枚という少ない金額であっても、彼女は信仰を持って神様に捧げました。
人々の目から見たら、2レプトンというのはどのように映るでしょうか?
それっぽっちのお金が何の役に立つのか、そんなはしたがねを捧げて意味があるのかと思われるような額です。
これは人からそう思われるということだけではなく、自分自身でもそのように見てしまうこともあるでしょう。
こんな少ない額しか捧げられない私は役立たずだ、と。
でも、やもめは人々の目には意味のないように映る2レプトンを、信仰を持って神様に捧げました。
やもめは、人々の目にどう映るかではなく、神様への感謝と信頼をもって2レプトンを捧げたのです。
このことをイエスだけは知っていました。
やもめが献金を捧げた時、イエスが見ていたのは、単に2レプトンというお金の価値ではありませんでした。
イエスは、その二レプトンが彼女にとって何を意味するのかを知っておられたのです。
イエスは、そのお金が、彼女にとって生活費全てであることをわかり、なけなしの2レプトンを捧げたことを、知っておられました。
それでイエスは、彼女が捧げたものを観ながら「だれよりもたくさん入れた」と言われたのです。
律法学者は人々から先生と言われ、尊敬の眼差しで見られていました。
それに比べて、やもめは社会において見向きもされず、関心も払われないような存在でした。
しかし、イエスは貧しい一人のやもめのことをしっかりと見ておられました。
そして、貧しい中から持っているものすべてを捧げたその信仰をイエスは見ておられました。
本文の40節に「やもめの家を食い物にし」とあるように、律法学者は権威ある立場を悪用して、やもめという弱い立場にある人々から経済的にお金を搾取していたようです。
しかし、イエスは人々がやもめのことを見るようには見ていませんでした。
イエスは、そのやもめが置かれていた境遇をよく理解しておられ、彼女がしたことを通して、彼女のその心を受け止めてくださったのです。
やもめの献金は、まさに神様への感謝と信頼をもって捧げられたのです。