預言者以上の者、ヨハネ
今日の聖書箇所に出てくるヨハネというのは「洗礼者ヨハネ」のことです。
洗礼者ヨハネは、ヨルダン川で多くの人々に洗礼を授けていて、キリストにも洗礼を授けた人物です。
そんなヨハネのことをキリストは「洗礼者以上の者」(9節)だと言っています。
10節を見ると、キリストがそう言った理由がわかります。
『』で囲まれている言葉は、旧約聖書のマラキ書という書物に記されている言葉です。
この言葉から、ヨハネが旧約時代にマラキという預言者によって、その存在が預言されていた人物であることがわかります。
それ以外にも、イザヤという預言者もヨハネのことを預言していました。
このマラキの預言は、ヨハネがメシアの道を準備するために、神様から遣わされてた使者であることを明らかにしています。
この世界にメシアが来られた時、神様はその道を準備するためにヨハネを選ばれました。
つまり、キリストがヨハネのことを「洗礼者以上の者」だと評した理由は、一つに、ヨハネが旧約聖書で預言されていた人物であったこと、もう一つに、ヨハネがメシアの道を備えるために神様から遣わされた預言者だったからです。
そういう特別な立場にあったのが、洗礼者ヨハネという人物です。
ヨハネが期待したメシア
ヨルダン川でヨハネは、多くの人々に洗礼を授けていましたが、そのように人々が反応した理由は、ヨハネが言った言葉ー「悔い改めよ。天の国は近づいた」ーを聞いたからでした。
ヨハネは最終的な神様による裁きが、もうすぐこの地に行われるという信仰のもとに、人々に悔い改めるように叫んでいました。
このことから、ヨハネがメシアのことをどのように信じていたのかがわかります。
ヨハネが期待していたメシアは、この世の悪を正しく裁く王のようなメシアでした。
特に当時ユダヤという地方は、ローマ帝国に支配されていて、ローマ皇帝を崇拝するように強要されていたという事情があります。
ヨハネにとって、ローマ=悪であり、この世の悪が裁かれて、ユダヤ社会から悪が一掃され、清められることを願っていました。
しかし、ある時、ヨハネが突然、逮捕されてしまうという事件が起こります。
ヨハネはガリラヤ地方を治めていたヘロデという人物に対して、ヘロデが自分の兄弟の妻を略奪して結婚したことを知り、それが律法では赦されていない罪であるとヘロデのことを戒めました。
それに怒ったヘロデは、ヨハネを捕まえ、牢屋に入れてしまいました。
ヘロデとしてはすぐにでもヨハネを殺そうと思っていましたが、ユダヤの人々がヨハネを預言者として認めていたので、群衆を恐れたヘロデは、ヨハネをしばらく牢屋に閉じ込めていました。
ヨハネの葛藤
ヨハネが牢屋に入れられてからすぐ、キリストは公に宣教をスタートしました。
ヨハネは牢屋の中で、キリストがなさったことを聞いていたようですが、次第にヨハネの中にある疑問が生じてきました。
キリストがなされる働きを聞きながら、ヨハネの中に「本当にイエスという方がメシアなのだろうか?」という疑問が生じてきました。
なぜなら、ヨハネが待ち望んでいたメシアと、実際にキリストがしていた働きとの間に、大きなギャップがあったからです。
ヨハネが待ち望んでいたメシア、つまり、イエスという方に期待していたことは、この世の悪を正しく裁くということでした。
ヨハネにとって、メシアとは「力ある王、裁き主」でした。
しかし、ヨハネの耳に入ってくるキリストは、病を癒したり、悪霊に取り憑かれた人を癒したり、人々を教えたりするということでした。
さらには、犯罪者と一緒に食事をしたり、愛と赦しについて教えたりもしていました。
キリストはヨハネが期待していたような「悪を裁く」という働きを全くしていなかったのです。
この時のヨハネは、いつ処刑されるかわからない切迫した状況に置かれていました。
そんな中でヨハネは、神に裁く者(ヘロデ)に対して、メシアは厳しい裁きを与えてくれて、もうすぐ解放されると信じていたかもしれません。
しかし、なかなかその時は来ませんでした。
それでヨハネはキリストのところに弟子たちを遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせたのです。
辛く悲しい現実にあっても
自分のところに来たヨハネの弟子たちに対して、キリストはこう答えました。
この言葉は、旧約聖書のイザヤ書の預言を背景に、キリストが答えたものです。
キリストは、ヨハネが期待していたように、確かに「力ある王」でした。
しかし、キリストは「王としての力」を悪を裁くために使ったのではなく、その力を人々を癒し、助け、立ち上がらせるために使ったのです。
ヨハネが期待していたような「裁き」は、終わりの時、すなわちキリストの再臨まで待たなければならなかったのです。
最終的にヨハネは、ヘロデによって首をはねられ、殺されてしまいます。
悪を行ったヘロデは、更なる悪を犯しました。
この出来事だけを見れば、ヨハネは悪に負けたように見えます。
結局は、悪は野放しにされ、正義がねじ曲げられているような世界に見えます。
これは今の世界にも言えることです。
正しいことを指摘したヨハネが投獄されたように、今の世界も悪や不正が蔓延していて、悪が野放しにされているように見えます。
そういう世界で生きる私たちには、不当な苦しみや理不尽な悲しみがあります。
確かに辛く悲しい現実というものがあります。
しかし、最終的にキリストは全ての悪を正しく裁くために、再びこの地に来られます。
それが、私たちの希望です。
私たちは今、現実と希望の間に生きています。
辛く悲しい現実がありながらも、クリスマスという出来事に目を留める時、そこに希望を見出すことができます。
キリストは、辛く悲しい現実があるこの世界に来られました。
それは、この世界がどれだけ悪と不正に溢れていたとしても、同時にこの世界は神がきわめて素晴らしく創造した世界だからです。
神様はこの世界が回復していくことを願い、イエスというメシアを遣わされました。
現実と希望の間で、私たちはどのように生きていくことを願うでしょうか?