罪の結果??
「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
キリストはそう言われました。
これだけを聞くとなんだか脅されているような気持ちになるかもしれません。
まるで「悔い改めなければ待っているのは滅びだ!そうなりたくなければ今すぐ悔い改めよ!」と…。
ただ、聖書を見れば、キリストはそうやって人々を脅迫しながら、悔い改めを迫ったわけではないことは明らかです。
むしろ、赦しの愛によって、受け入れる愛によって、人々は自ら悔い改めていったのです。
3節と5節にある悔い改めを迫る言葉は、2つの事件の話によって引き出されたものでした。
一つは、当時ユダヤを支配していたローマの総督ピラトが、反ローマを掲げるガリラヤ人に対して、虐殺を行ったというものです。
もう一つは、シロアムの塔が倒れて18人の人々が犠牲になった事件です。
これらの事件で犠牲になった人々について、罪が原因だとするような見方が当時のユダヤにあったようです。
しかし、キリストはそれをキッパリと否定しています。
人は何か災難が起こると、その原因を究明しようとします。
よくわからない場合、「それは罪ゆえに起こったのだ」と考えることがあります。
目の前の事象を合理的に理解して、何とか納得する、あるいはさせるためです。
しかし、聖書からは罪と災いを結び付けるような考えは出てきません。
それはあくまでも「受け止めきれない悲しい現実」なのです。
ここで確かなことは、それでも神様はその悲しい現実の中に共におられるということなのでしょう。
もう一年、また一年…
キリストは繰り返し「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と警告しいましたが、ここで言わんとすることは、人間側の罪の深さではありません。
そうではなく、この言葉の中には、キリストの愛の深さが隠されているのです。
愛によって悔い改めへと招いておられるのが、キリストです。
悔い改めについて、キリストは「実のならないいちじくの木」のたとえを語り出します。
ある人(=ぶどう園の主人)が園にいちじくの木を植えて、その実を収穫しようとしましたが、3年もの間、全く実はなりませんでした。
それで主人は、ぶどう園の管理人に対して「そんな木は切り倒してしまえ」と命令しますが、管理人は「来年こそは実がなるかもしれない」と言って、猶予を求めました。
このたとえ話が発しているメッセージは「悔い改めなければ滅びだ!」というものではありません。
そのように要求するのは、神様ではなく、サタンであり、自分の中の誤った神様像です。
この場面で、神様の姿を表しているのは、主人に対して「もう一年待ってほしい」と懇願した管理人の方なのです。
そのように神様は、私たちが悔い改めることを一年、また一年を待ってくださるお方です。
神様の願いは、一人も滅びることなく、皆が悔い改めることにあるのです。
そのために、神様は今日も葛藤しながらも、忍耐をもって私たちのことを待っておられるのです。