クリスマスの物語というのは、一面では辛く悲しいこの世の現実を表しています。
抗えない力の前に屈するしかない悔しさ、誰も自分のことを理解してくれない苦しみ、愛する人に対して何もしてあげられないもどかしさ、不衛生な飼い葉桶に我が子を寝かすしかない悲しみ…
これが、ヨセフとマリアが体験したこの世の現実でした。
さらに、そこに登場するのが、羊飼いという存在です。
彼らのもとに天使が現れ、大きな喜びとして伝えられたことは「救い主が生まれた」という知らせでした。
そして、生まれたばかりのイエスのもとを訪れたのです。
羊飼いというとなんか素朴で洒落たイメージがあるかもしれませんが、当時のユダヤ社会ではそうではありません。
間違いなく「将来就きたくない仕事ランキング」の上位に食い込んでくるであろう下等な職業とみなされていました。
羊飼いといっても、彼らは自分の所有する羊を飼っているわけではありません。
別に羊のオーナーがいて、その羊の群れを預かって世話をする仕事です。
預かった羊を外敵から守るために、昼夜関係なく働かなければなりません。
かといって、給料が良いわけでもありません。
夜勤は当然、労働基準法なんて関係ない超ブラックな職業です。
羊飼いというのは社会の中からハブられ、この世に居場所がない人々を象徴する存在でした。
「なんで自分ばかりこんな目にあわなければならないんだ…」
「誰も自分のことをわかっちゃくれない…」
「どうせ自分なんてこの世に必要ないんだ…」
全く同じ状況ではないにしても、マリアやヨセフ、また羊飼いたちが直面した現実と似たような思いを、私たちも少なからず経験したことがあると思います。
この世に生きていれば、そういう暗い現実を避けて通ることはできないのです。
この暗さはどこから来たのでしょうか?
暗さの正体はいったい何でしょうか?
それは、人間の罪です。
社会を暗くしていたのは、神様を見失い、自分がよければそれでいいという価値観に染まってしまった人間たちでした。
しかし、クリスマスの物語の中心にあるのは、人間の罪という暗さではありません。
暗闇の中にあって輝く一筋の “光” なのです。
イエスキリストは言いました。
「わたしは世の光である。」
イエスキリストはそういう辛く悲しい暗闇の中に、光としてやって来ました。
人間を罪から救うために、救い主としてこの世に来たのです。
私たちが暗闇の中に置かれてしまった時、本当に必要なものは何でしょうか?
たとえ、視力5.0の人間を超越した眼力や諭吉ファミリー、華々しい学歴や顔面力があったとしても、暗闇の中ではこういったものは全て無力化されてしまいます。
暗闇の中で本当に力を発揮するもの、それは光なのです。
もちろん、イエスに出会った羊飼いたちの置かれた現実が、突然180度好転したわけではありません。
彼らは再びその厳しい現実の中に戻って、生きていかなければなりませんでした。
しかし、イエスキリストという光によって、羊飼いたちが見る世界は変わったはずです。
救い主に出会った彼らは、過酷な現実の中にあっても救いの希望を持って生きていったのです。
たとえ辛く悲しい現実の真っ只中にあったとしても、私たちは光ゆえに希望を持つことができるのです。
その光こそクリスマスの主人公、イエスキリストなのです。
(完)