人間味を失ってしまった男
今日分かち合うのは、悪霊に取りつかれている男がイエスによって悪霊から解放され、救われた話です。
この男は、長い間、衣服を身に着けず、自分の家ではなく、墓場を住まいとしていました。
当時のお墓というのは、洞穴を掘って作られいたので、住もうと思えば住めないこともなかったと思いますが、当然、本来そこは、人が生活するところではありませんでした。
この話は、他の福音書(マタイ、マルコ)にも記されていますが、そこを見ると、この男は、墓場や山で叫んだり、石で自分を打ち叩いたり、とても暴力的になっていたようです。
そのため、人々は男を鎖でつなぎ、また、足枷をはめて、暴れ出さないように監視していました。
この時の男には、着る服がなかったわけでもなく、住む家がなかったわけでもありませんが、男はその度に、鎖を引きちぎり、墓場がある荒れ野へと戻っていってしまいました。
男はもはや人間にはコントロールできない状態に陥っていました。
自分で自分をコントロールすることもできなければ、周りの誰かが、男を押さえつけることもできませんでした。
それは、男は悪霊に完全に支配されてしまっていたからです。
この時、男をコントロールできたのは、ただ悪霊だけでした。
男には服を着なかったり、墓場に住んだり、石で自分のことを打ちつけたりと、自分で自分のことを傷つける自虐性がありました。
男は悪霊によって、人間らしさを奪い取られてしまっていました。
人間としての尊厳が傷つけられていたのです。
葛藤する日々
そんな中で、この男に会うために、イエス・キリストはやってきました。
この時、イエスは弟子たちと共に、舟に乗って、ゲラサ人たちが住んでいる地方にやってきました。
イエスが舟を降りて、陸に上がると、男が近づいてきました。
そして、イエス様の前にわめきながら、ひれ伏して「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」と叫びました。
「いと高き神の子イエス」と言っているように、男はイエスが神の子であることを知り、認めていました。
ただ、男は同時に「かまわないでくれ、苦しめないでほしい」ともイエスに叫びました。
この男の言動を見ると、何か矛盾を感じます。
イエスの前にひれ伏して「いと高き神の子イエス」と言うのであれば、普通、その後にどういう言葉が出てくるでしょうか?
「いと高き神の子イエス、どうか救ってください」とか「私を助けてください」という言葉が続くのが普通です。
しかし、男が言ったのは「かまわないでくれ」「苦しめないでほしい」という言葉でした。
男は「かまわないでほしい」と言っていますが、そもそも、イエスのところに来たのは、男の方からです。
イエスが舟から降りて陸に上がると、墓場にいた男がイエスのところにやってきたのです。
「関わらないでほしい」と思うのであれば、わざわざ墓場から出て、イエスの前に姿を現す必要はなかったはずです。
なんか矛盾しているように思えます。
男のこの矛盾した言動から見えてくるものは、人間の中に混在している二つの思いです。
1つは「変わりたい」「このままでいけない」という思いです。
そして、もう1つが「そのままでいたい」「今のままがいい」という思いです。
男はイエスの前にひれ伏して「いと高き神の子イエス」と呼びました。
これは、男がイエスのことを救い主として認めていた表れでしょう。
ただそれと同時に、男はイエスに対して「かまわないでくれ」「苦しめないでほしい」と叫びました。
これは、男の心の中に「このままでいたい」という思いがあったからだと思います。
このように、私たち人間のうちには「このままではいけない」という思いと「このままでいたい」という二つの思いが混在しているのだと思います。
日々、そういう葛藤があります。
どうか出ていってほしい
こういう人間の姿が、今日の場面において、この男以外のところにも表されています。
32節以降を見ると、男に取りついていた多くの悪霊は、男から出て、その町で飼育されていた豚の中に入りました。
そうすると、豚は崖から落ちていき、湖の中で溺れ死んでしまいました。
こうして、男は悪霊の支配から解放されて、救われました。
これら一部始終の出来事を見聞きしていた人々は、男が救われたことを町の人々に知らせました。
そうすると、人々はイエスに対して、自分たちの町から出て行って欲しいと迫ったのです。
男が悪霊から解放されて救われるというのは、喜ばしい出来事のはずです。
それにもかかわらず、なぜ人々はイエスを町から追い出そうとしたのでしょうか?
この時、人々は恐れに取り憑かれていたようです。
その恐れとは、イエスという存在とその力が、自分たちの町を変えてしまうことへの恐れでした。
町の人々にとって、誰の手にも負えなかった男がイエスによって変えられました。
また、自分たちが飼っていた豚が急に殺されてしまいました。
町の人々は、イエスがもたらした変化に恐れを抱いたのだと思います。
人が変わってしまう、この町が変わってしまう、自分たちの生活が変わってしまう、と。
彼らの姿を見ると、私たち人間のうちには「変わりたくない」「そのままでいたい」という思いがあることが見て取れます。
人間らしくされる
そんな中で唯一、イエスの前に出て行き、ひれ伏したのは誰だったでしょうか?
それは、悪霊に取りつかれていた男です。
男は、自分で自分をどうすることもできない状況の中で、自分を支配していた悪霊を超える力を持つお方、イエス・キリストに出会いました。
「関わらないでほしい、そっとしておいてほしい」と思いを持ちながらも、男はイエスの前に出て行きました。
その時、この男に救いが訪れました。
私たちには、どうにもならない自分と向き合う時、叫び、嘆きたくなる時があります。
そういう自分を見ながら、自分のことを否定し、自分自身を傷つけたりすることもあると思います。
どうか自分に関わらないでほしいと、周りをシャットアウトしたくなることもあるでしょう。
しかし、私たちはそのように自分1人で自分と格闘する必要はもうなくなりました。
なぜなら、イエス・キリストが私たちのところに来てくださったからです。
聖書を見ると、イエスに近づいていき、救いを求めた人々はたくさんいました。
しかし、今日の場面に出てくる男の場合は「救ってください」なんて一言も言っていません。
むしろ「自分に関わらないでくれ」と、イエスを遠ざけようとしました。
だからと言って、イエスは「じゃあもう自分の好きにしたらいいよ」とは言われませんでした。
イエスは、この男の葛藤、心の叫び、その苦しみを理解してくださいました。
イエスは、この男を苦しめている悪霊を追い出し、男を救ってくださいました。
男はイエスによって、人間らしさ、人間の尊厳を取り戻したのです。
私たちは、今の自分のままで、イエスの前に出ていくことができます。
心の中にある葛藤、ありのままの叫びをイエスに伝えることができます。
その時、イエスは私たちの心の叫び、嘆きを聞いてくださり、受け止めてくださいます。
私たちは自分という存在をそのままイエスに委ねることができます。
イエスと共に生きる時、私たちは本当の意味で人間らしく、自分の人生を生きていくことができるようになるのです。