本音と建前
皆さんは普段、どれくらい本音で語る機会があるでしょうか?
日本には「本音と建前」という文化があって、日本人の民族性として、本音を隠して、建前で語る傾向があります。
この前カフェで、アメリカの方と話した時、アメリカ人は嫌いなものについては、はっきりと嫌いだと表現することが多いそうです。
その方がメニューを見て「コーラは嫌い」と言ったが、その後に「日本ではそうは言わないんですね。『あまり好きではない』と言うんですね」と言っていました。
確かに、日本人としては、ストレートに「嫌い」と言うよりも「あまり好きではない」とか「好みではない」と、少しオブラートに包んで話すことが多いと思います。
私も日本人として、本音をそのまま話すことに抵抗を感じることがよくあります。
それでは、信仰の世界ではどうでしょうか?
信仰の世界でも、本音で語ることが不信仰だとみなされることがあります。
不満や疑いなど、否定的な言動は控えるべきであって、神様の前ではいつも「信じます」「従います」という姿勢でいるべきだと。
どんなに厳しい状況の中でも、いつも心を強く保っていることが信仰なのでしょうか?
私たちは神様に対しても、建前で接するべきなのでしょうか?
先ほど読んだ御言葉の中に、38年間、病気で苦しんできた人が出てきました。
当時のエルサレムには、病気の人や目が見えなかったり、足が不自由だったり、障がいを抱えた人たちが集まるベトザタという池がありました。
この池にまつわるある迷信がありました。
この池には時々、天使が現れて、池の水をかき回して、水が動いた瞬間に池に入ると病気が癒されると信じられていました。
それで、病気や障がいを持った人々が、この池の周りに集まっていたのです。
不信仰によって救われる?
その中に、38年間、病気で苦しんできた人がいました。
その人は、足が不自由で歩くことができなかったようです。
イエスはその人が横たわっているのを見て、また、長い間病気であるのを知って、こう言われました。
「良くなりたいか」
普通「良くなりたいか」と聞かれた、どのように答えるでしょうか?
長い間病気で苦しんできたとしたら、当然「はい、良くなりたいです」と答えるでしょう。ただ、この病人の場合は違いました。
彼は、そこに集まっていた人と同じように、水が動いた時に池の中に入れば病気が癒されると信じて池に来ていましたが、自分のことを池の中に入れてくる人がいなかったのです。
それで、イエスの問いかけに対して、不満を述べ伝えました。
単に「はい、良くなりたいです」とは答えられなかった返答の中に、彼の苦悩が表されているように思います。
「なぜ自分が長い間こんな目に遭わなければならないのか? なぜ自分には池に入れてくれる人がいないのか? なぜ他の人ばかりが先に降りて行ってしまうのか?」
彼の放った言葉を聞くと、何か諦めに近い境地を感じます。
信仰者の視点からすれば、彼の返答は不信仰のように見えます。
せっかくイエスから「良くなりたいか」と聞かれているのに、その問いかけを無視して、ただ自分の不満を述べているのです。
そもそも、迷信を信じている時点でアウトのようにも思えます。
この病人の言動だけを見れば、不信仰者だと認定されてしまうでしょう。
ただ、不思議なことに、この後イエスはこの病人を癒してくださるのです。
私たちが聖書から知っていることは、信仰によって救われるということです。
しかし、彼の場合は、不信仰でありながらも、病気が癒やされたのです。
不信仰によって、救われたと言えるでしょう。
心の叫び
私たちはこの出来事をどのように理解したらいいのでしょうか?
信仰というと「信じます」「従います」という態度だと理解されています。
それゆえに、私たちの多くは、この病人の言動を見て、不信仰だと感じるのです。
なぜ迷信を信じるのか? なぜ不満ばかり言っているのか?と。
ただ、それに対してイエスは、この病人の不信仰らしき言動について、何も咎めていません。
なぜこの池に来るのか? 水が動いた時に池に入れば癒やされるなんて、そんなことがあるのか? なぜ心が不満で満ちているのか?
このようには言っていません。
イエスが言われたことは、ただ「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」ということです。
イエスの目には、彼の言動はどのように映っていたのでしょうか?
この病人がイエスに答えたことは、確かに不満であって嘆きの言葉でした。
しかし、それは同時に、彼の本心であり、本音でもありました。
正直な心の叫びだったと言えます。
彼は、38年という長い間、病気で苦しんできました。
おそらく、これまで多くの医者に診てもらったと思います。
いろんな治療法も試したことでしょう。
でも、全然良くならないし、その原因もわからない、歩きたいけど歩けなかったのです。
特に、当時のユダヤというのは、病人に対して優しい社会ではありませんでした。
病気や障がいは、罪と結びつけて考えられていたからです。
病気で苦しんでいるのは、自分の罪のせいだと言われたのです。
人から責められ、自分で自分のことを責めたことも、何度もあったことでしょう。
そういう環境の中で、38年間、命が繋がったことだけでもある意味で奇跡の話です。
こういう背景を考えると、この病人のことを「不信仰」という一言で片付けることはできないと思うのです。
良くなりたいのは、当たり前です。
良くなりたいに決まっているのです。
彼がイエスの述べた、ただの不満のように聞こえる言葉は、彼の本心であり、心の叫びだったと思います。
自分の心を押し殺すことなく
イエスは38年間の苦しみをよく知っておられたと思います。
彼の言葉や態度だけを見たら、不信仰だと切り捨てたくなるかもしれませんが、イエスは、目には見えない部分にある彼の思いを受け止めてくださいました。
イエスは彼の正直な思いを聞いて、これまでの苦しみや葛藤を全部理解してくださったと思います。
たぶんイエスは、迷信を信じ、不満を述べている彼を見ながら、不信仰ということではなく、彼に対する憐れみが圧倒的に上回ったのだと思います。
このことを見ても、私たちはどれだけ人を裁きやすいのかがわかると思います。
私はこの場面を見ながら、病人が自分の思いをそのままイエスに語ることができたことに意味があったのではないかと思います。
カッコつけて「はい、主よ、良くなりたいです」ということもできたかもしれません。
しかし、たとえそれが否定的な思いであったとしても、自分の本心をそのままイエスにぶつけた時、イエスはそれを受け止めてくださいました。
日本人は、建前というものを美徳とする世界観を持っています。
そこには、相手に対する配慮が含まれているので、私は、そういう世界観は大切にしたいと思っています。
ただ、そういう世界観の中で、自分の本音や本心が隅に追いやられてしまうことがあります。
本心を隠し、自分の本当の心を押し殺すということが起こりやすくなるのです。
これは信仰の世界の中でも起こります。
何か否定的な思いや考えを、不信仰だと切り捨て、感謝や喜びなど、肯定的な思いで信仰を繕います。
しかし、神様の前で私たちが自分の本心を隠し、自分を偽ることには、何の意味もありません。
神様は、私たちの思い全てを知っておられるからです。
もちろん、こういう人が集まっている場所ではお互いに配慮が必要ですが、ただ、神様に対しては自分を飾ったり、偽ったりする必要は全くありません。
神様に対して、自分の本当の思いを露わにした時、神様はどう思われるでしょうか?
イエスが、38年間、病気で苦しんできた人に対して、裁くことをしなかったように、神様は私たちの本心とその背後にあるものを全部理解し、受け止めてくださることでしょう。
神様は、私たちが自分を偽ったり、飾ったり、強く見せたりするのではなく、自分の心に対して、正直であってほしいと願っているのだと思います。
こう考えると、私たちは信仰ということについて、これまでの理解を見直す必要が出てくるでしょう。
本当の意味での不信仰というのは、神様を無視している状態のことだと言えます。
創世記のはじめで、アダムとエバが、神様から独立して生きる道を選んだように、自分の世界から神様を取り除くことが不信仰だと言えます。
そうだとすれば、信仰というのはその反対です。
神様がいる世界で生きていることが、信仰なのでしょう。
そこで大切なことは、神様の前で「自分に正直であること」だと思います。
たとえ不満や疑問であっても、それを神様にぶつけながら、そこに神様の導きがあることを信じていくことが、信仰ではないでしょうか。